今井 信郎(いまい のぶお)

(1841年〜1918年)享年78歳

 天保12年10月2日、幕臣今井守胤の長男として、江戸湯島天神下で生まれる。
 榊原鍵吉から直心影流を修行し、免許皆伝となり、その後、講武所剣術師範となる。
 慶応3年10月、遊撃隊頭取として上洛し、その後京都見回組与力頭となる。
 慶応4年1月、鳥羽伏見の戦いにおいて斬り込み隊として参戦するが敗北し、江戸に戻り、古屋佐久左衛門を隊長とする歩兵部隊「衝鋒隊」の副隊長として甲州鎮撫のため出兵し、江戸城無血開城後も、会津から北越へ転戦する。 
 北海道に渡り、榎本蝦夷共和国政府海陸軍裁判役兼軍監となるが、明治2年5月18日五稜郭が陥落し、降伏する。

 明治3年、兵部省の尋問により、坂本龍馬暗殺に見張役として加わったと自白し、投獄されるが明治5年1月、西郷隆盛の口添えにより特赦を受け放免される。(明治33年、今井信郎自身が雑誌「近畿評論」に坂本龍馬を自らが斬った。と発表し、現在では、もっとも有力な説となっている)
 同年、来静し、駿府城敷地内に私立学校を設立したが、その後、静岡県官史となり、明治9年4月に伊豆七島巡視となる。
 明治10年、「西南の役」が勃発すると官史を辞し、警視庁警部となり部隊を率いて鹿児島へ向かうが、途中で終戦となる。
 明治11年、警視庁を辞して初倉村字坂本(現島田市)に入植して茶の栽培を行う。その後、同村議を経て村長となり、大正7年6月25日死去。