中条金之助景昭
ちゅうじょうきんのすけかげあき
(1827年〜1896年)

 

 中条金之助景昭は文政10年6月19日に中条氏右衛門の長男として生まれ、幼いころから剣術を学び、心形刀流、北辰一刀流を極める。
 34歳で幕府の講武所において剣術教授を務め、後の新撰組の前身である浪士隊(新徴組)の発足に関わる。
 山岡鉄舟とともに江戸において「精鋭隊」を率いて鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜の身辺警護にあたり、慶応4年4月(明治元年)慶喜が水戸へ謹慎する際にも随行し、さらに慶喜が駿府(現在の静岡市)に来静する際にも随行している。
 駿府において精鋭隊は「新番組」と改名し、警護を行うがすでにその役目が無くなり、明治維新後は大草太喜次郎高重らとともに旧旗本200名余を率いて、牧ノ原台地を開墾し、茶園3000町歩の基礎を築く。
 金之助景昭は、親友であった山岡鉄舟の無刀流の道場を牧ノ原に開き、門人1000人余を数え、廃刀令後に於ける静岡県剣道中興の祖と云われている。
 明治29年1月19日に没し、享年70歳。葬儀委員長は勝海舟が務める。
 金之助景昭没後、開墾に従事していた士族の移住が相次いだことに伴い道場は衰退するが、長男克太郎らが、徳川家からの旧幕臣に対する学資補助金を榛原中学校(現:県立榛原高校)に寄付し、明治35年、同校敷地に剣道場「講武館」を建設し、現在に至る礎となっている。


中条克太郎

中条金之助の長男。武徳会静岡支部教授を務める。