間宮鐵太郎信古
(まみやてつたろうのぶひさ)
天保2年(西暦1831年)、旗本田辺十左衛門の次男として江戸番町に生まれる。
天保7年(6歳) 、小野派一刀流師範杉浦勝政に入門する。
天保9年(8歳)頃から弓術馬術柔術砲術長刀等の武術の修行に入る。
弘化2年(15歳)、一刀流忠也派「初巻目録」を受ける。
弘化4年(17歳)、旗本間宮忠左衛門の養子となり、間宮鐵太郎信古となる。
嘉永3年(20歳)、小野派一刀流忠也派総目録を受ける、宝蔵院流槍術免許を受ける。
安政3年(26歳)、幕府講武所が発足し、剣術世話心得となる。
安政4年(27歳)、小野派一刀流忠也派杉浦勝政から免許皆伝を受け、私塾教導館を開く。
文久元年(31歳)、将軍の警護を務める奥詰衆となり、和宮様御下向の道中警護にもあたる。
幕府講武所剣術教授も務め、鳥羽伏見の戦いにおいては、大砲隊長として参戦する。
慶応4年(38歳)、明治維新にともない徳川家達に従い来静する。
明治3年(40歳)、浜松藩勤番頭として三方原開拓取締を命ぜられ入植し、村長、三方原学務委員等を勤める。
明治17年(54歳)、公職を退き、笠井、気賀の警察署、高等学校の剣術指導にあたる。
明治27年(64歳)、浜名郡笠井町(現在の浜松市笠井町)に「講武館」笠井道場を建立され、師範として遠州地方の剣道指導にあたる。
明治28年(64歳)、第1回武徳祭に出場し、萩原太郎と試合を行う。武徳会から武術精錬之証を授与される。
大正4年3月(西暦1915年)死去、享年85歳。
間宮勇太郎
間宮鉄太郎の長男で、小野派一刀流十三世。「講武館」笠井道場を鉄太郎没後引き継ぐが、間もなく閉鎖し、その後、五社神社(浜松市利町)境内に設立された演武館道場の師範を勤める。
大正6年、武徳会から武術精錬之証を授与する。
大正10年、剣道教士を受ける。
戦後は浜松商業高校の剣道師範を務める。