山岡鉄太郎

 天保7年6月10日、江戸本所において御蔵奉行小野朝右衛門高福の四男として生まれ、号を鉄舟という。
久須美閑適斎に就いて剣法を学び、弘化2年に郡代となった父母に伴われ、飛騨高山に赴き、井上清虎に北辰一刀流を学ぶ。
 父母が相次いで病死したため江戸に戻り、千葉周作から剣法、山岡静山から槍術を学ぶ。
 静山が急死後、同家の養子となり、静山の妹英子と結婚し、山岡と改姓する。
 英子の兄の精一郎は高橋家を継ぎ、後の高橋泥舟となる。
文久3年、28歳のときに浪士隊(新撰組の前身)の取締役となり上洛するが、清河八郎とともに近藤勇らと別れて江戸に戻る。
 その後、浅利又七郎義明の門人となり、中西派一刀流を修める。
慶応4年(明治元年)、33歳のときに鳥羽伏見の合戦に敗れた徳川慶喜を江戸市中警護の任に当たっていた「精鋭隊」の隊長としてこれを迎える。
慶喜が恭順の意志があることを官軍に伝えるために、勝海舟の使者として西郷隆盛と駿府伝馬町松崎方において会見し、江戸城無血開城交渉へと導く。
 その後、静岡に移住し、明治2年、静岡藩の参事となり、旧幕臣の前後処理に当たる。
 明治4年、36歳のときに伊万里県知事を努め、それ以降、侍従、宮内少輔などを歴任する。
明治13年、45歳のときに小野忠明七世の孫の小野業雄から一刀流の組太刀を伝承され、一刀正伝無刀流を興し、春風館道場を開く。
 明治16年、東京谷中に普門山全生庵を建て、駿河久能寺(現、鉄舟寺)の再建を発願する。
明治21年7月19日、胃癌により座禅を組みつつ大往生する。享年53歳。